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浜千鳥 歌碑
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    浜千鳥 歌碑
    鴨川市と南房総市との境の花園海岸に、浜千鳥歌碑があります。 

    ♪ 青い月夜の はまべには
     親をさがして なく鳥が
     波の国から うまれでる
     ぬれたつばさの 銀の色


    浜千鳥 歌碑1


    「浜千鳥」の歌碑
    親を探して鳴いたのは誰だったか
     
      作詞者の鹿島鳴秋(かしま・めいしゅう)は、6歳の時に両親と生き別れ(父は行方不明、母は再婚)、祖父母に育てられました。どんなにか寂しかったでしょう。鳴秋は千鳥の鳴く寒い冬の晩の情景を「親をさがして 鳴く鳥が」と、自分の生い立ちと重ね合わせて書いた詞(詩)と言います。
     鳴秋は、明治24(1891)59日、東京市深川区東大工町(現・東京都江東区白河二丁目)で生まれました。
     苦学して夜間の商業学校を卒業。その後、結婚。長女・昌子が生まれます。丸善に勤務していましたが、大正5年(1916年)、小学新報社の設立に伴い、同社の発行する少女雑誌「少女号」の編集長に迎えられました。
     大正8年(1919年)6月頃、28歳の鳴秋は新潟県柏崎で「浜千鳥」を作詞します。同年11月、引田龍太郎が曲を付け、雑誌「少女号」1月号(新年号)に掲載されます。
     大正15年(1926年)、小学新報社を退社し、自分の出版社を設立しますが、失敗。妻とは別居。娘・昌子が肺結核であったため、千葉県和田町の和田浦に移りますが、昭和6年(1931年)に昌子は19歳の生涯を閉じました。
     鳴秋は昭和29年(1954年)67日、63歳で亡くなりました。
     
    上の文は小池小百合さんのホームページを参考に作成させていただきました。(注1)
     
     さて、和田浦の「浜千鳥」歌碑。どうしてこの地にあるのでしょうか?
    この地でこの歌詞が生まれたからでしょうか? 普通、そのように考えてしまいます。
     
     でも違います。前述したように、鳴秋は大正8年新潟県柏崎で「浜千鳥」を作詞しました。作詞した状況を証明する人もいて、記録にも残っています。そして歌碑も建てられています。和田町の歌碑よりも5年早くです。
     一方、和田町の歌碑は昭和41年(1966年)に地元の有志により建てられました。その中心人物は安田耕一氏。鹿島鳴秋を誰よりもよく知る人です。大正時代の和田浦に鳴秋夫妻が避暑に避暑に来るようになり、近所に住む安田少年は、目のクリッとした昌子さんと仲よしになり、さらに鳴秋夫妻とも知り合ったそうです。成長して安田氏は医者になり、東京・目黒区に開業。鳴秋は晩年、安田氏のところに身を寄せていたそうです。胃を患った鳴秋はここで手術を受けましたが、手遅れだったそうです。享年63歳。
    歌碑の裏面に安田氏が書いた「建碑の言葉」は次の通りです。

        建碑の言葉
      土用波が荒れる頃
      磯辺の千鳥が月に消えて
      海がめが卵を生みにくる
      此の土地は
      鳴秋が人情の素朴を愛した
      たった一人の娘 昌子さんが
      若くして和田浦で逝った
      それ以来 彼の切々たる
      傷心から「浜ちどり」や
      「夜の貝」等の歌詩が
      此の海岸の街で生れた
      父と娘だけのつながりの
      世界に 此の碑を建立して
      霊を慰めたい。
       終わりに多くの人々の心からの
       喜捨を感謝  合掌
      昭和四十年十二月  安田誌 


    浜千鳥 歌碑2
     
    歌碑には昭和四十年十二月とありますが、実際に除幕式が行なわれたのは翌四十一年三月二十日の事でした。(注2)
     
     
    でもこれって、変ですよね。お嬢さんが亡くなったのが昭和7年。その悲しみから「浜千鳥」の歌が生まれたと安田氏は書いています。でも「浜千鳥」の詞は前述の通り、大正8年に出来上がっていました。不思議です。
     
     たぶん以下のような事情ではないでしょうか? 「浜千鳥」の歌は、発表はしたものの長い間、日の目を見なかった。というか発表当時は、一時は注目されだが、その後は埋もれてしまった。
     13年後に長女の昌子さんが病死。その後、「浜千鳥」はリバイバルヒット。でも安田氏は当時、てっきり鳴秋さんの新曲だと思い込み、それを疑わなかった。その理由は後述。
     
    やがて鳴秋さんも亡くなり、安田さんのまわりには真実を知る人がいなくなってしまった。5年前に完成した柏崎の歌碑のことなど、知るよしもない。だからその「思い込み」そのままを碑文に刻んだ。
     
     ということでしょう。安田さんが疑わなかった理由が「ださいたま」というブログ(注3)に載っていました。
     
    この歌が全国に知られたのは、昭和7年(1932年)、「蝶々夫人」のプリマ・ドンナとして世界で活躍していた三浦環(たまき)がレコード化してからだった。
     
    この1年前、娘の昌子が19歳で結核で死去していたので、この詩は亡くなった娘をしのんだ歌だと受け取られ、本人もそう語ったこともあるという。
     
    しかし実際は、詩ができたのは友人を訪ねた新潟県柏崎の浦浜海岸で、「親を探して夜鳴く鳥」は娘ではなく、本人のことだというのだ。
     
     つまり「本人もそう語っていた」からです。でも、なぜでしょうか? 何らかの事情があったためでしょうか? とれとも、単に話すのが面倒だったためでしょうか? 詳しいことはわかりません。
     
     いずれにせよ、「本人もそう語っていた」のだから、安田氏がそう思い込んでしまっても仕方ありませんよね。
     
    なお前述のブログ「ださいたま」は、鹿島鳴秋のことをつぎのように結んでいます。
     
    鳴秋は、幼い時に父は失踪、母親は再婚、6歳の時に祖父のもとに引き取られ、夜間商業高校を卒業する人生の辛酸をなめた。この経歴を知れば、「親を探して鳴いたのは誰だったか」が浮かんでくるし、歌詞のうら悲しさの意味も分かってくる。歌の背後にそれを創った人の人生があるのだ。
     

    1 ホームページ「池田小百合 なっとく童謡・唱歌」www.ne.jp/asahi/sayuri/home/doyobook/doyostudy09.htmの「濱千鳥」の項を参考にしました。
    2 同じく「池田小百合 なっとく童謡・唱歌」「濱千鳥」の項を引用しました。
    3 ブログ「ださいたま 埼玉 彩の国 エッセイ」blog.goo.ne.jp/jiei62
    の「浜千鳥」の項を引用しました。



         
     
    posted by: うめお | うめお | 23:18 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
    先日、新潟に旅行した帰り、列車の乗り継ぎで降りた柏崎駅の案内看板に浜千鳥の歌碑があるのを知って訪ねました。歌碑は手入れされてないのか古ぼけていましたが友人を訪ねた鹿島鳴秋がここで作詞したと説明板にありました。小生の大好きな童謡であり貴兄のこの解説感慨ひとしをです。有難うございました。
    | 高林 昭彦 | 2018/05/20 8:26 PM |









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