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命燃ゆ
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    お万さまの出自

     水戸黄門のお祖母さん、徳川家康の側室、養珠院・お万の一生を描いた「命燃ゆ/養珠院お万と家康公」という小説を読みました。作者は安藤三佐夫という人。読みやすく面白い本です。

     この本や勝浦に伝わる伝説では、断崖絶壁に立つ勝浦城に敵の軍勢が攻めて来たので、幼いお万と母は崖から布をたらし、それにつかまって海に降り、舟で伊豆まで逃げたとか。




     でもパソコンのウィキぺディアによると、当初はお万の実父である正木頼忠は小田原に人質になっていましたが、万が生まれると、急死した実の兄(正木時通)の後を継ぐため勝浦に戻ったということ。
    万の生母は再婚し、万はこの義父の元で育てられたとか。
    だからウィキぺディアの説によると、万は勝浦には行っていないということになります。

     かといって、この説をまるっきり信用するとういうのも、パソコン情報を鵜呑みにするようで、気が引けますが。

     勝浦市の旧中村病院の院長夫人が次のように考察しています。
    「頼忠が人質を許されて、小田原から勝浦に帰ったのが天正3年であり、2年を経て天正5年に万は勝浦城で誕生しました。
    天正18年に勝浦城は落ち、頼忠はやむなく妻を離別して、妻と娘の万を伊豆(加殿という場所は修善寺駅付近)に送りました」

    本当かどうかは誰もわからないのだから、「地元びいき」で一応上の文章が正しいということにして、手を打って貰いましょう。


    お万の布さらし

     お万は勝浦城育ちということで納得してもらうとして、肝心のお万の布さらしについては、天正18年、お万14歳の時、勝浦城が落ちた時に起こったという説がお万の方の銅像前の説明板には載っています。この年は北条氏が滅亡した年です。この銅像は、実は旧中村病院の院長夫人の建てたものだそうで。へぇ〜、ですね。

     一方、「命燃ゆ」には4歳のお万が天正8年(1580年、この年信長は朝廷に働きかけてもらって本願寺と講和した年)に布をさらして海上に逃れた、とあります。大多喜城で正木憲時の内乱が起き、早くしないと、勝浦城にも押し寄せる恐れがあるというので、女たちが先に逃げることになった、と。

     ‥契18年・お万14歳の時か、天正8年・お万4歳の時か、そんなこと一切なかったのか。いったいどれなのでしょうか?
    さっぱりわかりません。

    うめお





     
    posted by: うめお | うめお | 22:42 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
    長狭七福神(その5) 長安寺
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      長狭七福神(その5) 長安寺

       曹洞宗長安寺は、千葉県鴨川市宮山にある寺。永正2年 (1505年)に英祜(えいこ)が開創された名刹です。(英祜が生まれたのは室町時代であり、足利義政によって銀閣寺が出来上がったのは、諸国行脚中の22歳のころです。

       永正2年乙丑(1505年)年、たまたま、房州の君主 里見義弘が長安寺を開創し、英祜を拝請して開山。その翌年正木大膳時茂の帰依を受け数年ならずして大伽藍が完成したといいます。

       でも里見義弘の誕生は大永五年(1525年)であるのでそのころはまだ義弘は生まれていません。一説には里見義通の時代に正木時茂の父・正木時綱が英祜を拝請し、時茂の時代で伽藍が完成したと考えた方が自然です。





      小多喜正木氏の活躍

       房総正木氏は、安房に土着した三浦氏の支族と理解されています。平安時代末から安房へ進出した三浦氏は、東京湾の海上交通への影響力保持をめざしていました。

       正木氏は館山平野の正木郷を名字の地としていると考えられ、当初は安房国衙(こくが)付近に勢力を持ったと考えられます。戦国時代の正木氏は長狭郡から朝夷郡にかけてを支配領域にするとともに、里見氏のもとで国衙奉行人という役割を与えられて、安房国ナンバー2の実力をつけていました。

       その人物が16世紀初頭に活躍した正木通綱です。通綱は当主里見義豊の叔父里見実堯とともに、水軍を管轄して内房で勢力を拡大していたため、これを危険視した義豊によって里見氏の本城である稲村城で里見実堯とともに殺害され(天文2年=1533年)、天文の内乱のきっかけとなりました。

       内乱のなかで通綱の子正木時茂・時忠兄弟は実堯の子里見義堯とともに義豊を討ち、義堯が里見家の当主となり、時茂兄弟が義堯を支える体制がつくられました。天文10年代に正木兄弟は東上総の武田氏領へ進出し、弟時忠は勝浦を、兄時茂は小田喜を拠点に夷隅郡のほぼ全域を支配領域に加えました。

       小田喜へ進出した正木氏にとって長狭は由緒ある地として意識され、とくに長狭平野の中央部には通綱が居城にしていた山之城があります。その麓には時茂の菩提寺長安寺や憲時の菩提寺道種院などが建立されており、いづれも小田喜正木氏ゆかりの寺院です。小田喜城に居城しながらも長狭に菩提寺を建立するところに長狭と正木氏との関係の深さがうかがえます。

       


       小田喜に進出した正木時茂は大膳亮と称して里見義堯とともに小田原北条氏との対立を繰り返し、その武勇は「槍の大膳」と称えられるほどでした。時茂の名声は遠く越前にまで聞こえ、朝倉宗滴は「人つかいの上手よき手本」と讃えています。永禄4(1561)年に没すると子の信茂が継ぎましたが、永禄7年の国府台合戦で信茂は討ち死にし、弟憲時が相続しました。

       憲時も大膳亮と称し近接する万木城(いすみ市)の土岐氏との攻防を繰り返しながら、里見義弘に属して活躍しました。しかし里見義堯・義弘父子が相次いで没した天正2(1574)年・6年頃を境に、里見家と距離を持つようになり、義弘の子義頼と梅王丸が相続を争った天正8年の内乱をきっかけに、梅王丸を破って家督を継いだ里見義頼と対立しました。長狭・夷隅を義頼に攻略されて小田喜城に籠った憲時は、翌(1581)年小田喜城で家臣に殺害されてしまいます。

       これによって正木氏領であった夷隅・長狭・朝夷は里見義頼が直接支配する領域となりましたが、長年の正木氏との関係をもっていた地域を安定的に支配するには正木氏の名跡が必要でした。正木時茂の娘を室にしていた義頼は、二男別当丸を小田喜正木家の養子に入れて血筋をつなぐことで、房総半島での里見氏の影響力を大きくすることに成功しました。この別当丸が二代目大膳亮時茂となります。

       天正18(1590)年に里見家は豊臣秀吉の小田原征伐に参加しましたが、惣無事令違犯の罪に問われて上総の領地を失ってしまいました。上総の里見家家臣は上総に残るか安房へ移住するかの選択を迫られましたが、二代目時茂は里見家一門として安房館山へ転居、八千石の村々を知行する里見家最大の家臣となりました。義康・忠義と若い当主が里見家を継ぐなか、義康の母であり忠義の祖母である初代正木時茂の娘がご隠居様として力を持ち、里見家を支えるようになりました。二代目時茂も忠義を支えていたが、慶長19(1614)年9月に里見忠義が倉吉へ減封国替えの命をうけると、時茂も重臣として同様の処罰を受けました。倉吉の忠義を監視していた鳥取藩池田家にお預けの身となり、忠義の身代わりのように罪人として寛永七(1630)年に没ました。池田家ではたいそう丁重に扱われたと伝えられています。


      毘沙門天 
       この寺の神様は毘沙門天。「財宝を守護し、国土守護をするインドの神様」とのこと。

      毘沙門天はその中の北方を守る神で仏法を聴聞することから「多聞天」とも呼ばれています。貧乏神も追い払えるような強い神様・毘沙門天にあやかって裕福に なりたいものですね。

       京都の都七福神では【東寺】が毘沙門天を祀っています。
       京都のシンボル・五重塔はこの東寺さんのもの。国家鎮護のために弘法大師が平安時代に建てたお寺です。 この寺の兜跋毘沙門天(国宝)は、高さ約百九十センチ。スマートでスタイル抜群!左に宝塔、右に錫杖を持ち厳めしさを醸し出しています。菅原道真公も信仰 したことから、学業成就の御利益もあるそうです。日本では、聖徳太子が四天王を祀ったのが始まりです。
      毎月二十一日には沢山の露店が軒を連ねる市がたち、京都の人々から「弘法さん」として親しまれています。
       
                                    うめお






       
      posted by: うめお | うめお | 20:44 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
      長狭七福神(その4) 大山不動尊
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        長狭七福神(4) 大山寺
         
           大山寺はもと大山山頂にある高倉神社(大山神社)の別当寺でした。大山不動とも呼ばれて、毎年8月7日に普利雨(ふりう)祭という雨乞いの祭礼が行われます。
         縁起によると、724年(神亀元年)に僧良弁が相模大山のものと同木の不動明王像を刻んだとされています。この木造不動明王像と両脇侍立像(県有形)は、製作年代不明です。とはいえ、別の文献を読むと、「古様な構造を持っていますが、随所に写実的な傾向が見られるので、鎌倉中期の作と考えられます」とあります。


        大山不動1

            当初は天台宗に属し、仏と神と自然崇拝が結びついた山岳修験の寺として大いに栄えたそうです。
         戦国時代には、当地を治めた里見氏、正木氏の庇護を受けました。
         
        この像を収める大山寺不動堂は(県有形)は1802(享和2=第11代将軍家斉の治世)年に建てられ、江戸中期の和様建築様式を忠実に伝えています。
         1872(明治5)年に真言宗に変わりましたが、現在でも大山地区の祭礼では、この大山寺の境内に各地区の神輿(みこし)が集合するなど、神仏習合の名乗りが認められます。

            
        大山不動2
         
           鐘楼は不動堂よりも建築年代が早く、江戸時代中期ごろ(18世紀半ば)と推測されています。後世の改修がほとんど施されていないため、その当時の建築様式をよくとどめています。


        大山不動3
         
           さて、この大山寺は、神奈川県大山寺、成田山新勝寺とならぶ関東三大不動のひとつとされているそうです。ちょっとあとの2寺とは格が違うような気がしますが。


        大山不動4

           なお、この寺の七福神巡りの神は恵比寿天です。航海と漁業の守護、商売繁盛の日本の神様です。
         七福神の元祖・京都では、恵比寿様を祭る神様は、東山区にある恵比寿神社です。  

         昔日本人は、海の彼方に神の国があり、そこから神がやってくると信じていました。もともと「えびす」とは、よそものという意味で漁村の神様が日本古来の神様と合体して恵比須神になったそうです。
        【恵美須神社】
        ご祭神の八重事代主命は釣りが好きで、海の幸と山の幸を物々交換し、暮らしを豊かにしたので商売繁盛の守り神となりました。正月の「十日戎」は「えべっさ ん」として有名で、商売繁盛を願う大勢の参拝者で賑わいます。
         住所:東山区大和大路通四条下る
         アクセス:京阪電車「四条」駅から徒歩7分または地下鉄「四条」駅より市バス207「四条京阪前」

        ☆期間中の催し:「初ゑびす」

                                                   うめお


         
        posted by: うめお | うめお | 11:49 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
        大多喜 本多忠勝の墓
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          大多喜 本多忠勝の墓(良玄寺)
           大多喜城下の南東にあたる新丁に、本多氏の菩提寺良玄寺(浄土宗)があります。1595年(文禄4年)、本多忠勝の開祖になり、初め良心寺と称しましたが、忠勝の死後そのおくり名をとって
          良玄寺と改めました。現在は無住ですが、寺には本多忠勝画像や、本田氏にかかわる古文書・位牌など数多く残されています。

           本堂の西100メートルほどの墓地に3本程の杉に囲まれて高さ1メートルほどの石塔が3つあります。中央が本多忠勝の墓で、右が忠勝の妻、左が次男忠朝の墓です。この墓地から北に大多喜城の全貌が望めます。



           元和元年(1615)忠朝は大阪夏の陣で戦死してしまいます。どのようにして死んだのかが問題です。
          慶長19年(1614年)、大坂冬の陣。酒を飲んでいたために不覚をとり、敵の猛攻に遭って敗退してしまいました。
           それを家康に咎められた忠朝は、翌20年(1615年)の大坂夏の陣のとき、汚名を返上しようと天王寺・岡山の戦いで先鋒を務め、毛利勝永軍に正面から突入し、奮戦しましたが戦死してしまいました。

           死の間際、「戒むべきは酒なり、今後わが墓に詣でる者は、必ず酒嫌いとなるべし」と無念の言葉を残したといわれ、死後「酒封じの神」として知られるようになったとか。

           酒が忠朝の命を縮めたなんて残念なことです。
          ただし、私うめおとしては絶対に「酒嫌い」にはなりたくありません。



          本多忠勝・忠朝」をNHK大河ドラマに

          大多喜町のホームページに、つぎのような文が載っていました。

           徳川家康の最重要側近(四天王の一人)として戦国の世を、生涯無敗で生き抜いた勇猛果敢な忠義一徹の武将『本多忠勝』、そして、慶長14年御宿沖で座礁したスペイン船乗員317名の命を救い、日本、スペイン、メキシコの友好交流の基を作った温情あふれる人間性豊かな『本多忠朝』。

          戦国の世から太平の世へと移る日本を背景にしたこの二人の親子のエピソードを、NHK大河ドラマとして誘致すべく、NHK大河ドラマ「本多忠勝・忠朝」誘致実行委員会が中心となりその誘致活動を行っています。





           
          posted by: うめお | うめお | 14:41 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
          裕(ひろし)の店、鉄板焼き「えきゅめ」にみんなで行きました。
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            裕(ひろし)の店、鉄板焼き「えきゅめ」に、みんなで行きました。
            田端から徒歩7分のところにある店です。

            皆さん、行ってやって下さい、

                                  ねじばな


             
            posted by: うめお | ねじばな | 13:22 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
            裕(ひろし)の田端の店
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              裕の田端の店

              息子・裕が、鉄板焼き・お好み焼き屋の店を出しました。

              
              店名「鉄板パル えきゅめ」
              
              住所は北区田端新町2−1−13
              中田第2ビル 1階
                電話03−6807−6119
              
              
              
              昼は11:30〜15:00
              夜は17:30〜23:00
              
                皆さん、行ってやって下さい。
              posted by: うめお | うめお | 15:10 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
              石堂寺(いしどうじ)
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                石堂寺(いしどうじ)

                 石堂寺は726(神亀3)年行基によって開基されたとつたえられ、古くは石塔寺といい、滋賀・群馬の石堂寺と合わせて三塔寺と称せられました。室町末期に足利朝氏を養育して、その幼名石堂丸にちなみ寺名にしたと伝えられます。851(仁寿元)年慈覚大師により復興されて鎌倉時代には隆盛を極めたといいますが、1487(文明19)年に全山を焼失、1522(大永2)年頃から現在の位置に本堂を移しました。



                 本堂(国重文)は正面3間、側面4間に寄棟造りの屋根をふいたもので、禅宗の様式を主とした折衷様式とされています。室町後期の様式と考えられています。






                 1487年の火災後の仮本堂と寺伝にある薬師堂にあるは、旧・丸山町(現・南房総市)石堂原に境外仏堂として置かれていましたが、1970〜71(昭和45〜46)年に移築復元されました。
                   本尊の木造十一面観音立像(国重文)は平安後期の作品と考えられています。

                 境内にある丸山町珠師谷(しゅしがや)から移築された旧尾形(おがた)家住宅(国重文)は、江戸中期の別棟造りの大型農家です。境内にはほかに多宝塔(国重文)・三王宮(県有形)があり、多宝塔には木造千手観音坐像(県有形)が祀られています。いずれも、室町後期の作と考えられています。     

                                   うめお


                 
                posted by: うめお | うめお | 17:21 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                仁右衛門島
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                  仁右衛門島
                   仁右衛門島は、波太島(なぶとじま)・蓬島(よもぎじま)と呼ばれる周囲4キロメートルほどの小島で、安房の各地に残っている頼朝伝説地のひとつです。

                   


                     伝えによると、1180(治承8)年、源頼朝は石橋山合戦に敗れて安房に逃れました。上総介広常のもとにむかおうとして平家方の長狭(ながさ)六郎常伴(つねとも)に襲われましたが、この島の住人平野仁右衛門に助けられたので、島主平野氏に島付近の漁業権を与えました。これにより島主は代々仁右衛門を名乗り、島も仁右衛門島と呼ばれるようになりました。




                     島内には江戸期の改築を経た平野氏の邸宅のほかに、頼朝・日蓮にちなんだ伝説を持つ洞穴や岩、キンギンハリナスの珍しい群落などがあります。

                  うめお



                   
                  posted by: うめお | うめお | 20:15 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                  菱川師信記念館
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                    菱川元師信記念館


                     浮世絵の祖として名高い菱川師信について、資料を多く展示しています。師信は、明治期に到るまでの間、絵師の世界でのアイドル的な存在で、幼少の頃から家業の縫箔(ほうはく)刺しゅう業を手伝って、下絵を書いたことが、後に浮世絵師としての大成する下地をなしたといわれています。

                     第2展示室には、師信が下絵を描いたといわれる縫箔刺しゅうをはじめ、「見返り美人図」が展示してあり、第3展示室には、木版の色刷りの工程が実物を使って分かりやすく展示してあります。

                     近くには「菱川師信の墓」「菱川師信生誕地碑」があります。

                    うめお
                    posted by: うめお | うめお | 16:28 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                    那古寺(なごじ)
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                       那古観音1
                       
                       那古寺(なごじ)
                       
                       補陀落山(ふだらくさん)那古寺(真言宗)は、坂東三十三所の巡礼の札納めの寺(結願所 けちがんじょ)であり、また安房国三十三箇所の出発寺とされています。
                       
                       寺伝によれば、養老年間(717〜724、だいたい奈良時代の初期)、行基が那古の海から霊木を得て、千手観音を刻み、開祖したといいます。
                                   

                      那古観音2

                       本尊はクスノキ材一本造りの千住観音立像で、頭と体の全部は藤原期の様相を伝えています。また銅造千住観音立像(国重要文化財)は鎌倉前期の作と推定され、写実的でひきしまった表情の秀作とされています。

                       さらに鎌倉期の作品と思われる木造阿弥陀如来坐像や1761(宝暦11年、9代将軍・家重の時代)年建立の多宝塔および観音堂、しゅう字法華経普門品(ふもんぼん)、絹本着色の僧形八幡神像(いずれも県有形)などの文化財があります。


                      那古観音3

                       千手観音で思い出したことがあります。業界紙の記者時代、ある宴会に招かれた時のこと。ゲストに紙きりの師匠(だと思います)が招かれました。「お題を頂ければ嬉しいのですが」と私が指名されました。私は「千手観音」とのお題をとっさに思い付き、答えました。限られた時間の中で、千本もの手をどうやって切るのか? 我ながらいいお題だ、と思いました。

                       「はい、出来上がりです」 見てみると、「北千住駅の改札口で、観音様が駅員になり切符を切っているところ。名付けて千住観音」とか。
                      脱帽しました。           うめお


                      那古観音4
                      posted by: うめお | うめお | 15:58 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |