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大多喜 本多忠勝の墓
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    大多喜 本多忠勝の墓(良玄寺)
     大多喜城下の南東にあたる新丁に、本多氏の菩提寺良玄寺(浄土宗)があります。1595年(文禄4年)、本多忠勝の開祖になり、初め良心寺と称しましたが、忠勝の死後そのおくり名をとって
    良玄寺と改めました。現在は無住ですが、寺には本多忠勝画像や、本田氏にかかわる古文書・位牌など数多く残されています。

     本堂の西100メートルほどの墓地に3本程の杉に囲まれて高さ1メートルほどの石塔が3つあります。中央が本多忠勝の墓で、右が忠勝の妻、左が次男忠朝の墓です。この墓地から北に大多喜城の全貌が望めます。



     元和元年(1615)忠朝は大阪夏の陣で戦死してしまいます。どのようにして死んだのかが問題です。
    慶長19年(1614年)、大坂冬の陣。酒を飲んでいたために不覚をとり、敵の猛攻に遭って敗退してしまいました。
     それを家康に咎められた忠朝は、翌20年(1615年)の大坂夏の陣のとき、汚名を返上しようと天王寺・岡山の戦いで先鋒を務め、毛利勝永軍に正面から突入し、奮戦しましたが戦死してしまいました。

     死の間際、「戒むべきは酒なり、今後わが墓に詣でる者は、必ず酒嫌いとなるべし」と無念の言葉を残したといわれ、死後「酒封じの神」として知られるようになったとか。

     酒が忠朝の命を縮めたなんて残念なことです。
    ただし、私うめおとしては絶対に「酒嫌い」にはなりたくありません。



    本多忠勝・忠朝」をNHK大河ドラマに

    大多喜町のホームページに、つぎのような文が載っていました。

     徳川家康の最重要側近(四天王の一人)として戦国の世を、生涯無敗で生き抜いた勇猛果敢な忠義一徹の武将『本多忠勝』、そして、慶長14年御宿沖で座礁したスペイン船乗員317名の命を救い、日本、スペイン、メキシコの友好交流の基を作った温情あふれる人間性豊かな『本多忠朝』。

    戦国の世から太平の世へと移る日本を背景にしたこの二人の親子のエピソードを、NHK大河ドラマとして誘致すべく、NHK大河ドラマ「本多忠勝・忠朝」誘致実行委員会が中心となりその誘致活動を行っています。





     
    posted by: うめお | うめお | 14:41 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
    裕(ひろし)の田端の店
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      裕の田端の店

      息子・裕が、鉄板焼き・お好み焼き屋の店を出しました。

      
      店名「鉄板パル えきゅめ」
      
      住所は北区田端新町2−1−13
      中田第2ビル 1階
        電話03−6807−6119
      
      
      
      昼は11:30〜15:00
      夜は17:30〜23:00
      
        皆さん、行ってやって下さい。
      posted by: うめお | うめお | 15:10 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
      石堂寺(いしどうじ)
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        石堂寺(いしどうじ)

         石堂寺は726(神亀3)年行基によって開基されたとつたえられ、古くは石塔寺といい、滋賀・群馬の石堂寺と合わせて三塔寺と称せられました。室町末期に足利朝氏を養育して、その幼名石堂丸にちなみ寺名にしたと伝えられます。851(仁寿元)年慈覚大師により復興されて鎌倉時代には隆盛を極めたといいますが、1487(文明19)年に全山を焼失、1522(大永2)年頃から現在の位置に本堂を移しました。



         本堂(国重文)は正面3間、側面4間に寄棟造りの屋根をふいたもので、禅宗の様式を主とした折衷様式とされています。室町後期の様式と考えられています。






         1487年の火災後の仮本堂と寺伝にある薬師堂にあるは、旧・丸山町(現・南房総市)石堂原に境外仏堂として置かれていましたが、1970〜71(昭和45〜46)年に移築復元されました。
           本尊の木造十一面観音立像(国重文)は平安後期の作品と考えられています。

         境内にある丸山町珠師谷(しゅしがや)から移築された旧尾形(おがた)家住宅(国重文)は、江戸中期の別棟造りの大型農家です。境内にはほかに多宝塔(国重文)・三王宮(県有形)があり、多宝塔には木造千手観音坐像(県有形)が祀られています。いずれも、室町後期の作と考えられています。     

                           うめお


         
        posted by: うめお | うめお | 17:21 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
        仁右衛門島
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          仁右衛門島
           仁右衛門島は、波太島(なぶとじま)・蓬島(よもぎじま)と呼ばれる周囲4キロメートルほどの小島で、安房の各地に残っている頼朝伝説地のひとつです。

           


             伝えによると、1180(治承8)年、源頼朝は石橋山合戦に敗れて安房に逃れました。上総介広常のもとにむかおうとして平家方の長狭(ながさ)六郎常伴(つねとも)に襲われましたが、この島の住人平野仁右衛門に助けられたので、島主平野氏に島付近の漁業権を与えました。これにより島主は代々仁右衛門を名乗り、島も仁右衛門島と呼ばれるようになりました。




             島内には江戸期の改築を経た平野氏の邸宅のほかに、頼朝・日蓮にちなんだ伝説を持つ洞穴や岩、キンギンハリナスの珍しい群落などがあります。

          うめお



           
          posted by: うめお | うめお | 20:15 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
          菱川師信記念館
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            菱川元師信記念館


             浮世絵の祖として名高い菱川師信について、資料を多く展示しています。師信は、明治期に到るまでの間、絵師の世界でのアイドル的な存在で、幼少の頃から家業の縫箔(ほうはく)刺しゅう業を手伝って、下絵を書いたことが、後に浮世絵師としての大成する下地をなしたといわれています。

             第2展示室には、師信が下絵を描いたといわれる縫箔刺しゅうをはじめ、「見返り美人図」が展示してあり、第3展示室には、木版の色刷りの工程が実物を使って分かりやすく展示してあります。

             近くには「菱川師信の墓」「菱川師信生誕地碑」があります。

            うめお
            posted by: うめお | うめお | 16:28 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
            那古寺(なごじ)
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               那古観音1
               
               那古寺(なごじ)
               
               補陀落山(ふだらくさん)那古寺(真言宗)は、坂東三十三所の巡礼の札納めの寺(結願所 けちがんじょ)であり、また安房国三十三箇所の出発寺とされています。
               
               寺伝によれば、養老年間(717〜724、だいたい奈良時代の初期)、行基が那古の海から霊木を得て、千手観音を刻み、開祖したといいます。
                           

              那古観音2

               本尊はクスノキ材一本造りの千住観音立像で、頭と体の全部は藤原期の様相を伝えています。また銅造千住観音立像(国重要文化財)は鎌倉前期の作と推定され、写実的でひきしまった表情の秀作とされています。

               さらに鎌倉期の作品と思われる木造阿弥陀如来坐像や1761(宝暦11年、9代将軍・家重の時代)年建立の多宝塔および観音堂、しゅう字法華経普門品(ふもんぼん)、絹本着色の僧形八幡神像(いずれも県有形)などの文化財があります。


              那古観音3

               千手観音で思い出したことがあります。業界紙の記者時代、ある宴会に招かれた時のこと。ゲストに紙きりの師匠(だと思います)が招かれました。「お題を頂ければ嬉しいのですが」と私が指名されました。私は「千手観音」とのお題をとっさに思い付き、答えました。限られた時間の中で、千本もの手をどうやって切るのか? 我ながらいいお題だ、と思いました。

               「はい、出来上がりです」 見てみると、「北千住駅の改札口で、観音様が駅員になり切符を切っているところ。名付けて千住観音」とか。
              脱帽しました。           うめお


              那古観音4
              posted by: うめお | うめお | 15:58 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
              城山公園
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                城山公園
                   館山城跡を戦後に復興した公園で、現在は市民の憩いの場になっています。館山城は里見氏9代義康が天正年間に築城し、10代の忠義が伯耆の国に移されるまでの27年間、里見氏の居城でした。
                  春には桜、つつじが美しく、多くの花見客で賑わいます。園内の高台からは遠く富士山を望むことができます。
                   また園内には天守閣の形をした市立博物館の分館があり、八犬伝の資料が展示されています。開館9時から16時30分まで。月曜・年末年始休。






                里見八遺臣の墓
                里見氏10代忠義につかえていていた8人の家臣が主人とともに殉死しました。その骨を埋めたのがこの場所であると伝えられています。
                また、この遺臣たちが八犬伝のモデルとも言われています。



                上写真は八遺臣の墓(館山市広報より)
                 
                posted by: うめお | うめお | 15:50 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                館山・崖ノ観音
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                  崖ノ観音



                     断崖絶壁に大きな観音堂が建っています。始めて見た途端、圧倒されます。よくこんなもの建てたなあ、と。
                  説明板によると像を覆う観音堂が断崖の中段に飛び出すように建てられていることから、一般に「崖の観音」と呼ばれ、親しまれているそうです。





                   この像は、大福寺というこの寺の背後の壁面中段に、石の厨子をつくって、像を浮き彫りにした磨崖仏です。像の高さは131センチ。舟形の光背(仏身から発する光明をかたどった、仏像の背後にある飾り)を背に、二十蓮華(れんげ)座の上に座っています。磨耗が激しいので表情はよくわかりませんが、頭上に菩薩面を刻み、左手に水瓶(すいびょう)を持つ様子や、着衣のひだなどが確認できます。



                   ヒザの下にひも状の太いひだをつくり、肩の幅を広くしたスタイルに、平安中期の様式が窺えるとのことですが、全体の痛みがひどいため、制作年代を確定することは出来ないということです。
                   寺伝では、養老元年(717年)行基が東国巡化の歳、突出の断崖中腹の自然石に11面観世音菩薩を刻み、安置したのがそのはじまりとか。漁民の海上安全と豊漁を祈願するために作られたといいます。




                   行基といえば、民衆のために生きた奈良時代の僧。最初は彼を迫害していた国も、民衆の支持を無視できなくなり、最終的には奈良の大仏の建設責任者に抜擢された偉い坊さんです。行基が館山の11面観世音菩薩を彫った年という717年を調べてみると、「朝廷が行基(ぎょうき)の活動を禁止する」と迫害されていた時代のこと、とありました。行基49歳の時と言いますから年代的にはあってますよね。(存命中のこと、という意味で)
                   彼は法相宗の僧。ところがこの大福寺は現在、空海で有名な真言宗。どこでどう変わってしまったのか、不明とのことです。




                    観音堂は、飛騨(ひだ)匠(たくみ)の舞台づくり。舞台から眺める館山湾の眺めは素晴らしいのひとことです。             うめお
                  posted by: うめお | うめお | 18:54 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                  高村光太郎・智恵子の像
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                    ■千鳥と遊ぶ像高村光太郎・智恵子
                            
                                                                           
                     詩人で彫刻家の高村光太郎の妻、智恵子は昭和9年(1934年)5月〜12月に九十九里浜海岸の真亀で療養しました。光太郎は毎週欠かさずに東京から訪ねてきて、智恵子を見舞いました。

                     国民宿舎サンライズ九十九里の2階には光太郎と智恵子の像と碑文のミニチュアが飾られています。(像は上写真、碑文の内容は下記に)

                     なおオリジナルは、東金九十九里有料道路今泉駐車場にあります。
                     

                     


                     
                                                                                     
                          讃(たたえる)・千鳥と遊ぶ
                                                                                                                                                                             
                     ここは九十九里町真亀。太平洋の荒波が砕ける九十九里の浜は目の前である。海原はあくまで青く、寄せる白波は帯のよう。弓なりに伸びる白砂も海も、果てしなく続く。
                     
                     
                                                                             

                     真亀納屋の松林の一角に、田村別荘の名乗りがある。高村光太郎の妻智恵子が、昭和9年(1934)の初夏から7ヶ月ほど、療養の日々を過ごしたところ。「智恵子抄」の舞台にもなった。
                     
                     
                                                                                                                                                                              光太郎は詩人であり彫刻家。智恵子もまた芸術をめざし励んでいた。だが、病める智恵子に、海の色も、空の色も、その風景すら映らない。ひたすら砂浜をさまよい、渚に遊ぶ千鳥を無心に追っていた。自然に帰ってしまったのだろうか。見守る光太郎の思いは「千鳥と遊ぶ智恵子」に語り尽されている。
                     
                     
                                                                          
                     「千鳥と遊ぶ」の像は、この二人をモチーフに刻まれた。制作は日展作家の久保田俶通(よしみち)氏。千葉県道路公団が東金九十九里有料道路の開通を記念して作ったモニュメントである。天空に向かって立つ二人の像は、時を越え愛の言葉を私たちに語りかける。




                                                                                           
                     この国民宿舎の外観は上写真の通りです。
                     

                       千鳥と遊ぶ智恵子 

                    人つ子ひとり居ない九十九里の砂浜の
                    砂にすわつて智恵子は遊ぶ。
                    無数の友だちが智恵子の名をよぶ。
                    ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――
                    砂に小さな趾(あし)あとをつけて
                    千鳥が智恵子に寄つて来る。
                    口の中でいつでも何か言つてる智恵子が
                    両手をあげてよびかへす。
                    ちい、ちい、ちい――
                    両手の貝を千鳥がねだる。
                    智恵子はそれをぱらぱら投げる。
                    群れ立つ千鳥が智恵子をよぶ。
                    ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――
                    人間商売さらりとやめて、
                    もう天然の向うへ行つてしまつた智恵子の
                    うしろ姿がぽつんと見える。
                    二丁も離れた防風林の夕日の中で
                    松の花粉をあびながら私はいつまでも立ち尽す。


                    「ちい×5」が千鳥の声、「ちい×3」が智恵子の声なのがポイントとのこと。

                    国民宿舎サンライズ九十九里の裏手の田村別荘跡に智恵子抄詩碑があるそうです。

                        うめお



                     

                    posted by: うめお | うめお | 21:35 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                    長狭七福神(その3) 福禄寿
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                       長狭七福神 福禄寿

                       長狭街道添い、「長狭中学校前」の交差点を保田方面に向かい、コメリの先の道路右側に
                       佛日山・安国寺(鴨川市北風原、本尊は聖観世音菩薩、曹洞宗)があります。ここが長狭七福神の福禄寿をまつる寺です。


                       
                       この安国寺(あんこくじ)。ウィキペディアで調べたらビックリしました。南北朝時代に足利尊氏、直義兄弟が、北海道、沖縄を除く日本各地に設けた寺院のひとつなんですって。

                       聞くところによると、臨済宗の夢窓疎石の勧めにより、後醍醐天皇以下の戦没者の菩提を弔うため、聖武天皇が国ごとに国分寺を建立したように、国ごとに1寺を建てる計画を立てたそうです。そして1338年(延元3年、暦応元年)に、和泉・久米田寺を始めとし、以後、南北朝時代中期にはほとんど完成したそうです。

                       安国寺による禅宗(特に臨済宗)の地方への波及など、文化的、政治的意義が大きかったんですって。
                      でも残念ながら室町幕府の没落と共に、安国寺も衰退してしまったそうです。

                       安房では安国寺はチャンと残っているんだからスゴイ。本来の場所は寺門というところだったらしいけど。  また宗派も禅宗は禅宗でも、臨済宗ではなくて曹洞宗に変わったけど。でもそのへんはあまり、気にする必要もないことですが。




                       さて、福禄寿とは福(幸福)、禄(高給)、寿(長命)を授ける中国の神様です。七福神の絵で、頭の長い神様がいますが、アレです。身長は低く、頭はツルツル、長いヒゲがあります。経典を結んだ杖を持ち、腰には瓢箪をぶら下げています。

                       中国の道教の神仙・南半球から見える南十字星のひとつである南極老人星(カノープス)の化身とされています。


                       


                       京都「都七福神」では、福禄寿を祀る寺は赤山(せきざん)禅院です。最初に大きな鳥居をくぐり、次に立派な山門をくぐります。石段の上には狛犬があり右に水屋、正面に拝殿と本殿。そこへ、読経が聞こえ、神社だか寺だか。

                       
                       
                       
                       
                       天台宗延暦寺の別院ですが、天台の守護神として赤山明神をまつっているので、今も神仏混淆(こんこう)の形態を伝えています。

                       平安京の東北に位置する表鬼門にあたり、方除(よ)け、鬼門除けの神さんとして信仰されています。拝殿の屋根の上には、京都御所の東北角の猿が辻の猿との延長線上に、御幣と鈴を持った瓦(かわら)彫りの鬼門除けの猿が安置されています。

                       修学院離宮が近くにあります。             うめお

                       
                      posted by: うめお | うめお | 14:35 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |