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城山公園
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    城山公園
       館山城跡を戦後に復興した公園で、現在は市民の憩いの場になっています。館山城は里見氏9代義康が天正年間に築城し、10代の忠義が伯耆の国に移されるまでの27年間、里見氏の居城でした。
      春には桜、つつじが美しく、多くの花見客で賑わいます。園内の高台からは遠く富士山を望むことができます。
       また園内には天守閣の形をした市立博物館の分館があり、八犬伝の資料が展示されています。開館9時から16時30分まで。月曜・年末年始休。






    里見八遺臣の墓
    里見氏10代忠義につかえていていた8人の家臣が主人とともに殉死しました。その骨を埋めたのがこの場所であると伝えられています。
    また、この遺臣たちが八犬伝のモデルとも言われています。



    上写真は八遺臣の墓(館山市広報より)
     
    posted by: うめお | うめお | 15:50 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
    館山・崖ノ観音
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      崖ノ観音



         断崖絶壁に大きな観音堂が建っています。始めて見た途端、圧倒されます。よくこんなもの建てたなあ、と。
      説明板によると像を覆う観音堂が断崖の中段に飛び出すように建てられていることから、一般に「崖の観音」と呼ばれ、親しまれているそうです。





       この像は、大福寺というこの寺の背後の壁面中段に、石の厨子をつくって、像を浮き彫りにした磨崖仏です。像の高さは131センチ。舟形の光背(仏身から発する光明をかたどった、仏像の背後にある飾り)を背に、二十蓮華(れんげ)座の上に座っています。磨耗が激しいので表情はよくわかりませんが、頭上に菩薩面を刻み、左手に水瓶(すいびょう)を持つ様子や、着衣のひだなどが確認できます。



       ヒザの下にひも状の太いひだをつくり、肩の幅を広くしたスタイルに、平安中期の様式が窺えるとのことですが、全体の痛みがひどいため、制作年代を確定することは出来ないということです。
       寺伝では、養老元年(717年)行基が東国巡化の歳、突出の断崖中腹の自然石に11面観世音菩薩を刻み、安置したのがそのはじまりとか。漁民の海上安全と豊漁を祈願するために作られたといいます。




       行基といえば、民衆のために生きた奈良時代の僧。最初は彼を迫害していた国も、民衆の支持を無視できなくなり、最終的には奈良の大仏の建設責任者に抜擢された偉い坊さんです。行基が館山の11面観世音菩薩を彫った年という717年を調べてみると、「朝廷が行基(ぎょうき)の活動を禁止する」と迫害されていた時代のこと、とありました。行基49歳の時と言いますから年代的にはあってますよね。(存命中のこと、という意味で)
       彼は法相宗の僧。ところがこの大福寺は現在、空海で有名な真言宗。どこでどう変わってしまったのか、不明とのことです。




        観音堂は、飛騨(ひだ)匠(たくみ)の舞台づくり。舞台から眺める館山湾の眺めは素晴らしいのひとことです。             うめお
      posted by: うめお | うめお | 18:54 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
      高村光太郎・智恵子の像
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        ■千鳥と遊ぶ像高村光太郎・智恵子
                
                                                               
         詩人で彫刻家の高村光太郎の妻、智恵子は昭和9年(1934年)5月〜12月に九十九里浜海岸の真亀で療養しました。光太郎は毎週欠かさずに東京から訪ねてきて、智恵子を見舞いました。

         国民宿舎サンライズ九十九里の2階には光太郎と智恵子の像と碑文のミニチュアが飾られています。(像は上写真、碑文の内容は下記に)

         なおオリジナルは、東金九十九里有料道路今泉駐車場にあります。
         

         


         
                                                                         
              讃(たたえる)・千鳥と遊ぶ
                                                                                                                                                                 
         ここは九十九里町真亀。太平洋の荒波が砕ける九十九里の浜は目の前である。海原はあくまで青く、寄せる白波は帯のよう。弓なりに伸びる白砂も海も、果てしなく続く。
         
         
                                                                 

         真亀納屋の松林の一角に、田村別荘の名乗りがある。高村光太郎の妻智恵子が、昭和9年(1934)の初夏から7ヶ月ほど、療養の日々を過ごしたところ。「智恵子抄」の舞台にもなった。
         
         
                                                                                                                                                                  光太郎は詩人であり彫刻家。智恵子もまた芸術をめざし励んでいた。だが、病める智恵子に、海の色も、空の色も、その風景すら映らない。ひたすら砂浜をさまよい、渚に遊ぶ千鳥を無心に追っていた。自然に帰ってしまったのだろうか。見守る光太郎の思いは「千鳥と遊ぶ智恵子」に語り尽されている。
         
         
                                                              
         「千鳥と遊ぶ」の像は、この二人をモチーフに刻まれた。制作は日展作家の久保田俶通(よしみち)氏。千葉県道路公団が東金九十九里有料道路の開通を記念して作ったモニュメントである。天空に向かって立つ二人の像は、時を越え愛の言葉を私たちに語りかける。




                                                                               
         この国民宿舎の外観は上写真の通りです。
         

           千鳥と遊ぶ智恵子 

        人つ子ひとり居ない九十九里の砂浜の
        砂にすわつて智恵子は遊ぶ。
        無数の友だちが智恵子の名をよぶ。
        ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――
        砂に小さな趾(あし)あとをつけて
        千鳥が智恵子に寄つて来る。
        口の中でいつでも何か言つてる智恵子が
        両手をあげてよびかへす。
        ちい、ちい、ちい――
        両手の貝を千鳥がねだる。
        智恵子はそれをぱらぱら投げる。
        群れ立つ千鳥が智恵子をよぶ。
        ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――
        人間商売さらりとやめて、
        もう天然の向うへ行つてしまつた智恵子の
        うしろ姿がぽつんと見える。
        二丁も離れた防風林の夕日の中で
        松の花粉をあびながら私はいつまでも立ち尽す。


        「ちい×5」が千鳥の声、「ちい×3」が智恵子の声なのがポイントとのこと。

        国民宿舎サンライズ九十九里の裏手の田村別荘跡に智恵子抄詩碑があるそうです。

            うめお



         

        posted by: うめお | うめお | 21:35 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
        長狭七福神(その3) 福禄寿
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           長狭七福神 福禄寿

           長狭街道添い、「長狭中学校前」の交差点を保田方面に向かい、コメリの先の道路右側に
           佛日山・安国寺(鴨川市北風原、本尊は聖観世音菩薩、曹洞宗)があります。ここが長狭七福神の福禄寿をまつる寺です。


           
           この安国寺(あんこくじ)。ウィキペディアで調べたらビックリしました。南北朝時代に足利尊氏、直義兄弟が、北海道、沖縄を除く日本各地に設けた寺院のひとつなんですって。

           聞くところによると、臨済宗の夢窓疎石の勧めにより、後醍醐天皇以下の戦没者の菩提を弔うため、聖武天皇が国ごとに国分寺を建立したように、国ごとに1寺を建てる計画を立てたそうです。そして1338年(延元3年、暦応元年)に、和泉・久米田寺を始めとし、以後、南北朝時代中期にはほとんど完成したそうです。

           安国寺による禅宗(特に臨済宗)の地方への波及など、文化的、政治的意義が大きかったんですって。
          でも残念ながら室町幕府の没落と共に、安国寺も衰退してしまったそうです。

           安房では安国寺はチャンと残っているんだからスゴイ。本来の場所は寺門というところだったらしいけど。  また宗派も禅宗は禅宗でも、臨済宗ではなくて曹洞宗に変わったけど。でもそのへんはあまり、気にする必要もないことですが。




           さて、福禄寿とは福(幸福)、禄(高給)、寿(長命)を授ける中国の神様です。七福神の絵で、頭の長い神様がいますが、アレです。身長は低く、頭はツルツル、長いヒゲがあります。経典を結んだ杖を持ち、腰には瓢箪をぶら下げています。

           中国の道教の神仙・南半球から見える南十字星のひとつである南極老人星(カノープス)の化身とされています。


           


           京都「都七福神」では、福禄寿を祀る寺は赤山(せきざん)禅院です。最初に大きな鳥居をくぐり、次に立派な山門をくぐります。石段の上には狛犬があり右に水屋、正面に拝殿と本殿。そこへ、読経が聞こえ、神社だか寺だか。

           
           
           
           
           天台宗延暦寺の別院ですが、天台の守護神として赤山明神をまつっているので、今も神仏混淆(こんこう)の形態を伝えています。

           平安京の東北に位置する表鬼門にあたり、方除(よ)け、鬼門除けの神さんとして信仰されています。拝殿の屋根の上には、京都御所の東北角の猿が辻の猿との延長線上に、御幣と鈴を持った瓦(かわら)彫りの鬼門除けの猿が安置されています。

           修学院離宮が近くにあります。             うめお

           
          posted by: うめお | うめお | 14:35 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
          鴨川・誕生寺
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            誕生寺

             門前の市のにぎわいが房州随一ともいえる小湊山誕生寺(日蓮宗)は、総面積6万6000平米(2万坪)の境内に25の伽藍を置き、末寺200余りを数える日蓮宗の大本山です。日蓮の弟子日家によって、日蓮の誕生を記念するため、1276年(建治2、8代執権・北条時宗の時代)に建てられました。
              


            写真1 仁王門
             
             最初は現在の祓崎(はらいざき)にあって、高光山と称しましたが、1498年(明応7)と1705年(元禄16)の2度にわたる地震・津波のため、損壊・流失したため、宝暦年間(1704〜11、江戸時代・9代家重の時代)に再建されました。このとき、水戸・徳川家の力にあずかることが大きかったといいます。


            写真2 日蓮上人御幼像

             祖師堂はその後、火災により3度失われ、現在の大祖師堂は天保年間(第14代・徳川家慶の時代)に10年の歳月をかけて再建されたものです。


            写真3 誕生寺境内案内図

             所蔵されている主な文化財としては、日蓮が下総の豪族富木(とき)氏の家族にあてた書簡である「富城殿女房尼御前御書」(県有形)のほか、日蓮真筆や水戸光圀(みつくに)の書簡などがあり、いずれも宝物館に陳列されています。


            写真4 鯛の浦遊覧船からの風景

             門前に開けた内浦湾は、鯛の浦タイ生息地(国天然記念物)として有名で、門前から出ている遊覧船でタイの自然群生を見学できます。上写真は私うめおが数年前その遊覧船から撮影したもの。カモメが飛び交っています。


            写真5 鯛の浦遊覧船の発着所にある施設より キンメダイの説明
             
              泊り客がいらっしゃると、当ペンションではキンメダイをお出しすることが多いです。キンメダイはタイの仲間じゃないって聞いたけど、「キンメダイ科」だから、まるっきり別物ではないのでは?



            写真6 映画「こころ」( 市川崑 1955年・日活)は先生=森雅之、K=三橋達也、お嬢さん=新玉三千代、学生=安井昌二。

             夏目漱石の「こころ」には誕生寺が出てきます。先生とKは夏休みを利用して房総に旅行に出かけます。保田、富浦、那古とまわり、小湊へ。小舟を雇って鯛の浦を見た後、誕生寺にお参りします。
            「ちょうどそこに誕生寺という寺がありました。日蓮の生まれた村だから誕生寺とでも名をつけたものでしょう。りっばな伽藍でした。
             Kはその寺に行って住持(しゅうじ)にあってみると言い出しました」。坊さんはすぐに会ってくれました。会談が終わったのですが、日蓮のことをもっと聞きたかったKに対し、さほど関心のない私。ふたりの間で次の晩、口論となりました。Kいわく「精神的に向上心のない者はばかだ」

                                     うめお
             

             


             
            posted by: うめお | うめお | 13:23 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
            浜千鳥 歌碑
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              浜千鳥 歌碑
              鴨川市と南房総市との境の花園海岸に、浜千鳥歌碑があります。 

              ♪ 青い月夜の はまべには
               親をさがして なく鳥が
               波の国から うまれでる
               ぬれたつばさの 銀の色


              浜千鳥 歌碑1


              「浜千鳥」の歌碑
              親を探して鳴いたのは誰だったか
               
                作詞者の鹿島鳴秋(かしま・めいしゅう)は、6歳の時に両親と生き別れ(父は行方不明、母は再婚)、祖父母に育てられました。どんなにか寂しかったでしょう。鳴秋は千鳥の鳴く寒い冬の晩の情景を「親をさがして 鳴く鳥が」と、自分の生い立ちと重ね合わせて書いた詞(詩)と言います。
               鳴秋は、明治24(1891)59日、東京市深川区東大工町(現・東京都江東区白河二丁目)で生まれました。
               苦学して夜間の商業学校を卒業。その後、結婚。長女・昌子が生まれます。丸善に勤務していましたが、大正5年(1916年)、小学新報社の設立に伴い、同社の発行する少女雑誌「少女号」の編集長に迎えられました。
               大正8年(1919年)6月頃、28歳の鳴秋は新潟県柏崎で「浜千鳥」を作詞します。同年11月、引田龍太郎が曲を付け、雑誌「少女号」1月号(新年号)に掲載されます。
               大正15年(1926年)、小学新報社を退社し、自分の出版社を設立しますが、失敗。妻とは別居。娘・昌子が肺結核であったため、千葉県和田町の和田浦に移りますが、昭和6年(1931年)に昌子は19歳の生涯を閉じました。
               鳴秋は昭和29年(1954年)67日、63歳で亡くなりました。
               
              上の文は小池小百合さんのホームページを参考に作成させていただきました。(注1)
               
               さて、和田浦の「浜千鳥」歌碑。どうしてこの地にあるのでしょうか?
              この地でこの歌詞が生まれたからでしょうか? 普通、そのように考えてしまいます。
               
               でも違います。前述したように、鳴秋は大正8年新潟県柏崎で「浜千鳥」を作詞しました。作詞した状況を証明する人もいて、記録にも残っています。そして歌碑も建てられています。和田町の歌碑よりも5年早くです。
               一方、和田町の歌碑は昭和41年(1966年)に地元の有志により建てられました。その中心人物は安田耕一氏。鹿島鳴秋を誰よりもよく知る人です。大正時代の和田浦に鳴秋夫妻が避暑に避暑に来るようになり、近所に住む安田少年は、目のクリッとした昌子さんと仲よしになり、さらに鳴秋夫妻とも知り合ったそうです。成長して安田氏は医者になり、東京・目黒区に開業。鳴秋は晩年、安田氏のところに身を寄せていたそうです。胃を患った鳴秋はここで手術を受けましたが、手遅れだったそうです。享年63歳。
              歌碑の裏面に安田氏が書いた「建碑の言葉」は次の通りです。

                  建碑の言葉
                土用波が荒れる頃
                磯辺の千鳥が月に消えて
                海がめが卵を生みにくる
                此の土地は
                鳴秋が人情の素朴を愛した
                たった一人の娘 昌子さんが
                若くして和田浦で逝った
                それ以来 彼の切々たる
                傷心から「浜ちどり」や
                「夜の貝」等の歌詩が
                此の海岸の街で生れた
                父と娘だけのつながりの
                世界に 此の碑を建立して
                霊を慰めたい。
                 終わりに多くの人々の心からの
                 喜捨を感謝  合掌
                昭和四十年十二月  安田誌 


              浜千鳥 歌碑2
               
              歌碑には昭和四十年十二月とありますが、実際に除幕式が行なわれたのは翌四十一年三月二十日の事でした。(注2)
               
               
              でもこれって、変ですよね。お嬢さんが亡くなったのが昭和7年。その悲しみから「浜千鳥」の歌が生まれたと安田氏は書いています。でも「浜千鳥」の詞は前述の通り、大正8年に出来上がっていました。不思議です。
               
               たぶん以下のような事情ではないでしょうか? 「浜千鳥」の歌は、発表はしたものの長い間、日の目を見なかった。というか発表当時は、一時は注目されだが、その後は埋もれてしまった。
               13年後に長女の昌子さんが病死。その後、「浜千鳥」はリバイバルヒット。でも安田氏は当時、てっきり鳴秋さんの新曲だと思い込み、それを疑わなかった。その理由は後述。
               
              やがて鳴秋さんも亡くなり、安田さんのまわりには真実を知る人がいなくなってしまった。5年前に完成した柏崎の歌碑のことなど、知るよしもない。だからその「思い込み」そのままを碑文に刻んだ。
               
               ということでしょう。安田さんが疑わなかった理由が「ださいたま」というブログ(注3)に載っていました。
               
              この歌が全国に知られたのは、昭和7年(1932年)、「蝶々夫人」のプリマ・ドンナとして世界で活躍していた三浦環(たまき)がレコード化してからだった。
               
              この1年前、娘の昌子が19歳で結核で死去していたので、この詩は亡くなった娘をしのんだ歌だと受け取られ、本人もそう語ったこともあるという。
               
              しかし実際は、詩ができたのは友人を訪ねた新潟県柏崎の浦浜海岸で、「親を探して夜鳴く鳥」は娘ではなく、本人のことだというのだ。
               
               つまり「本人もそう語っていた」からです。でも、なぜでしょうか? 何らかの事情があったためでしょうか? とれとも、単に話すのが面倒だったためでしょうか? 詳しいことはわかりません。
               
               いずれにせよ、「本人もそう語っていた」のだから、安田氏がそう思い込んでしまっても仕方ありませんよね。
               
              なお前述のブログ「ださいたま」は、鹿島鳴秋のことをつぎのように結んでいます。
               
              鳴秋は、幼い時に父は失踪、母親は再婚、6歳の時に祖父のもとに引き取られ、夜間商業高校を卒業する人生の辛酸をなめた。この経歴を知れば、「親を探して鳴いたのは誰だったか」が浮かんでくるし、歌詞のうら悲しさの意味も分かってくる。歌の背後にそれを創った人の人生があるのだ。
               

              1 ホームページ「池田小百合 なっとく童謡・唱歌」www.ne.jp/asahi/sayuri/home/doyobook/doyostudy09.htmの「濱千鳥」の項を参考にしました。
              2 同じく「池田小百合 なっとく童謡・唱歌」「濱千鳥」の項を引用しました。
              3 ブログ「ださいたま 埼玉 彩の国 エッセイ」blog.goo.ne.jp/jiei62
              の「浜千鳥」の項を引用しました。



                   
               
              posted by: うめお | うめお | 23:18 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
              落語に50人
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                立川吉幸さんの落語に50人

                 2月16日(日)に開催された立川吉幸さんの落語独演会に、50人もの方々が集まってくれました。市野郷地域は14日(金)から降った雪のため、同日と翌日にかけて、停電。それでも何とか来てもらおうと、仲間と雪かきを行い、沢山の人に来て頂きました。



                 人が集まったのは雪かきのせいもありますが、何と言っても人集めに奮闘してくれた吉幸さんのお母さん(渡辺さん)のお陰ですね。                          うめお

                posted by: うめお | うめお | 22:52 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                臨海荘 黒汐資料館
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                  臨海荘 黒汐資料館

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                   駅から国道を南にしばらく行くと、旅館臨海荘の裏手に私設の黒汐資料館があります。
                  主な展示物としては、次のようなものがあります。

                   1捕鯨関係 ノルウェー式捕鯨砲や明治初期に日本に輸入され、明治初期に日本に輸入され外房の捕鯨に使用されたというグリナー砲などが展示されています。
                   2和船関係 和船の変遷がわかるように、五大力船や巾着船・地引船などの精巧な模型が時代順に並べてあります。
                   3道具類 船大工道具やイワシ・サバ漁などに使用された諸道具、干し鰯枡(かます)などがあります。

                   4民族資料 船霊(ふなだま=船の守護神 )や万祝(まいわい=漁師の晴れ着として作られてきた和服の一種)・絵馬・民具などが展示されています。

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                  日本漁民の息吹を伝える収集品
                   パンフレットでは次のように伝えています。
                  「今から30年ほど前までは、漁村では木造の船を櫓であやつり、漁に出ていました。そのころは魚もたくさんいていなくても、漁ができました。今では日本は豊かになり、大型漁船で沖に出て漁をしますが、魚は捕れなくなりました。漁民もどんどん減って、若い人は都会に出て行きます」

                   

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                   さらにパンフレットは文を続けます。
                  「先代の館長は、漁村の生活が大きく変わって、古いものがどんどん新しいものに換えられるのを見て、捨てられていくものを保存すべきだとして、半生かけていろいろなものを集めました。この資料館は漁村で捨てられ、省みられなくなったものを収集したものです。黒潮とともに生きたすなどりびとの息吹に触れて下さい。
                                                   二代目館長 矢代嘉衛門 
                       
                                          例え明日地球が亡びようとも
                                林檎の苗を植えようよ   

                   
                      
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                   3千点を収集 

                   資料館はJR勝浦駅から徒歩8分、国道128号線沿いにあります。そこには初代館長である矢代嘉春さんが半生をかけて収集した約3千点を展示しています。

                   

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                   現在の資料館は、嘉春さんが亡くなった後、資料整理のため建てられたもの。それまでは併設する旅館臨海荘の随所に展示されていたそうです。

                   

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                   嘉春さんのライフワークは捕鯨だったそうです。捕鯨基地は、江戸時代には全国で30ヵ所ありましたが、今は南房総市(旧和田町)の和田漁港と北海道網走、宮城県鮎川、和歌山県太地の4ヵ所だけになりました。



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                  「按鯤譚(あんこんたん)」つり人社刊
                  「黒汐反流奇譚」 新人物往来社刊
                  「日本捕鯨文化史」新人物往来社刊


                   矢代痩魚(そうぎょ)本名・嘉春。明治45年3月15日千葉県勝浦市に生まれる。早大機械科水力実験室に学ぶ。昭和18年財団法人三誓漁民会設立。このころより、民俗学、漁業史等の研究に専念。戦後、遠洋漁業及びタンカーを経営。以後NHK水産番組委員(昭和27~43年)、千葉県産業文化関係委員などを歴任したほか、黒汐資料館、痩魚洞文庫、館報「くろしお文化」を主宰。かたわら、黒汐の宿「臨海荘」を経営。昭和58年9月2日没
                     (本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)







                   
                  posted by: うめお | うめお | 17:29 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                  真福寺 波の伊八
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                    真福寺 波の伊八

                     真福寺(勝浦市市野郷)の「波の伊八」の作品は、本堂最奥の上部両端にあります。夢を食べるバクが、波の間に描かれています。 伊八の作品には珍しくカラーです。バクは当時想像上の動物でした。


                    向かって右側の彫刻 緑色のバク


                    向かって左側の彫刻 赤色のバク

                     日持上人が真言宗を日蓮宗に

                     真福寺ホームページによると、「建治2(1276)年2月、日蓮聖人ご両親の墓参を果たした六老僧の日持上人は、生地・駿河(静岡市)の松野と同名の地が近くにあると聞き、松野部落に掛錫し、 松野・長勝寺を開創した。その翌月、松野の近くの市野郷にも真言宗寺院があるのを 知り、教化帰伏して栄敬山真福寺と号した。時は建治2年3月である。真福寺では、日持上人が上総弘通の折、感得された『瘡守稲荷』をお祭りしている」といいます。


                    真福寺本堂

                     日持上人は、六老僧のひとり。我が国最初の海外布教を志し、実行に移した人物です。日興に導かれて日蓮の弟子になりました。非凡な学才と強固な意志を見込まれて、宗祖の臨終に際し本弟子のひとりに加えられました。
                     日蓮の13回忌法要を、自ら開いた松野の蓮永寺で営んだ
                    日持は、身延山の宗祖廟に詣で、中国・インドへの布教を請願しました。
                     翌年、単身、北方を目指して布教の旅に出ました。日持、46歳。残された事跡からルートを推測すると、山形、秋田、青森を経て蝦夷(北海道)を回りました。そして大陸に渡り、旧満州を経て、蒙古で死去したという説が有力です。

                     

                    境内全景図
                     
                       なお真福寺を創建した建治2年とはいつごろでしょうか。流罪赦免になって佐渡から戻った日蓮上人は、鎌倉に2ヶ月ほど滞在したあと、甲斐・身延に草庵を結び、厳しい日々をそこで過ごすことになります。身延に篭(こ)年のもった年の10月、ついに蒙古が襲来。日蓮上人の必死の念仏が効いたのか、蒙古軍は撃退されました。建治2年とは、この最初の蒙古襲来の翌々年のことです。その時の執権はNHK大河ドラマで和泉元弥が演じた北条時宗(8代)です。 
                         うめお










                     
                    posted by: うめお | うめお | 09:45 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                    おひな様
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                      おひな様



                       勝浦市で「ビッグひな祭り」を2月21日(金)から3月3日(日)までの11日間、開催します。この祭りは市内の遠見岬神社の階段をはじめ市内各地で、2万5000体ものおひな様を飾る一大イベントです。

                       ぜひ皆さん「ビッグひな祭り」に見に来て、当ペンションに泊まってください。ひな人形も飾りましたよ(上写真
                      美味しい料理も待ってます。     うめお
                      posted by: うめお | うめお | 18:15 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |