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長狭七福神(その2) 寿老人
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    長狭七福神(その2) 寿老人

     真福寺は、長狭七福神のひとつ寿老人をまつってあります。頭の長いお坊さんです。「中国の長寿の神様」とのことです。
       小柄な老人で、杖を持ち、鹿を連れた姿が多いですが、この鹿の肉を食べた者は長生きができたといわれています。独立して信仰されるより、七福神の一人として信仰されることが多いようです。






       七福神発祥の地・京都では、寿老人は革堂・行願寺にあたるそうです。この革堂は三十三観音のひとつ。京都で私もお参りしたことがあります。

    『たちこもの抄』

      なお、真福寺には次のような万葉歌碑があります。この辺の長狭地方に住んでいた人が作った防人(さきもり=兵役の任務)の歌だそうです。


    4354        立ち鴨(こも)の発(た)ちの騒きに相見てし妹(いも)が心は忘れせぬかも(巻20)

    (鴨の群れが立ち騒ぐそのあわただしいさまのように)、

    防人に召集されて戦地へ赴く出発の騒ぎの中で、
    愛するあの娘が、打ち明けてくれたその真心を
    私は決して忘れることなんてできやしない。
    必ず生きて帰って来よう、
    あの娘に再び逢うために。


     右の一首、長狭(ながさ)の郡(こほり)の上丁(かみつよほろ)丈部(はせつかべ)の与呂(よろ)麻呂(まろ)




    上写真の碑は、『たちこもの抄』で、碑文は以下のとおりです。


    たちこもの碑

     このさきもりの歌は天平勝宝七年二月九日(755年)朝廷に奉り、万葉集巻第二十に取戴されたもので、妹(いも。妻。いとしい人)との別離の哀愁を詠んだものです。長狭郡(ながさのこおり)は鴨川市とその周辺の呼称です。
     上丁(かみつよほろ)は兵士の階級です。丈部(はせつかべ)は馳せ使いの部民のことで、郷の名です。当地大幡と隣接の旧大山村の地域といわれ、この地、大幡小字作掛は古く作壁と書き、地元では夙に、さっかべと言い慣れて、はせつかべの転訛したもの、と伝承されています。
     防人(さきもり)はこの地より遠く難波を経、瀬戸海を筑紫に赴いて、三年の間北九州防衛の任に当たったのです。その苦労を偲んで、古代の人の心に触れたいものです。


     ということです。防人についてもっと詳しく言えば、「日本古代の兵役の一つ。〈さきもり〉は崎守の意。律令制では21〜60歳の男子は3年間の防人の軍役につく義務があった。ただし,実際には,防人の軍役は東海道,東山道地域の人々に限られていた。
     《万葉集》の防人歌は東国防人たちの歌であり,作者注記に国造丁,助丁,主帳丁,火長,丁などの言葉がみられることから,東国防人は旧国造(くにのみやつこ)軍の遺制を継承したものではないかと推測されている。防人の総数は約3000,その大半は筑紫地域,大宰府,壱岐,対馬に配置され,筑紫地域の内外の軍事情勢に活用された」とのこと。

     
    白村江での敗戦(663年)以後整備され,諸国の兵士が3年交代で任に当たりましたが,730年(聖武天皇の治世)から東国兵士に限ったとのこと。その後数度の改廃を経ましたが,900年代の初頭には有名無実となったそうです。この歌の記録にある755年といえば、聖武天皇の娘・孝謙天皇の治世です。防人の任が東国武士に限られるようになって、だいぶ経(た)っていますね。防人って西国の人のことかと思っていたら、東国、つまりこの辺の人のことだったんですね。知りませんでした。

    うめ
    posted by: うめお | うめお | 17:32 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
    長狭七福神(その1) 布袋尊
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      長狭七福神(その1) 布袋尊

      龍江寺という寺(鴨川市大幡) に行ってきました。
      ここに安置されているお地蔵さんはヒノキ寄木作りの仏像で鎌倉時代の作品だとか。
      地元では子安地蔵として「安産信仰」の対象になっているそうです。
      残念ながら予約制だったので、それを知らなかった私たちは、拝めませんでしたが。




      堪忍と和合

      また、この寺は長狭七福神のひとつとして、布袋尊をおまつりしています。
      布袋尊は堪忍と和合を教えてくれる楽天的な神様です。ぽってりとした太鼓腹とおおらかな笑顔で、愛嬌溢れる外見です。外出する時はいつも大きな袋をかついで人に物乞いをし、貰ったものは何でも袋の中に放り込 んでしまうので、布袋と呼ばれるようになったそうです。物事にこだわらない飄々とした風貌が円満につながるとされ、福神として祀られるようになりました

      京都・宇治市の万福寺も布袋尊(弥勒菩薩の化身とか)が安置されています。                                                                                            うめお




       
      posted by: うめお | うめお | 18:19 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
      林芙美子文学碑 いすみ市日在
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        林芙美子文学碑

        林芙美子文学碑

        文学碑の二回目。今回は林芙美子です。前回紹介した森鴎外文学碑のとなりにあります。
        碑文は次の通りです。
        ――――――――――――――
        ―――――――――――――    
        林芙美子文学碑 放浪記より

        私は日在浜(ひありはま)を一直線に歩いていた。十月の外房州の海は黒く盛り上がっていて、海の恐ろしいまでな情熱が私を興奮させてしまった。ただ海と空と砂浜ばかりだ。それもあたりは暮れそめている。この大自然を見ていると、なんと人間の力のちっぽけな事よと思うなり。

                              平成七年三月 大原町文化財保護協会

        ―――――――――――――――――――――――――――――  
        この作品は読んだことがあります。割と読みやすい文章です。日在の人々がいい人たちに書いてあるのが印象的でした。

        放浪記というと私は森光子を連想してしまいます。彼女の公演を実際に見たことがありますが、だいぶ前なので、その他の配役は忘れました。テレビ放映した劇場録画も見たことがあります。こちらは森光子のほかに池内淳子、米倉斉加年.  有森也実が出演していたのを覚えています。

                                             うめお
        posted by: うめお | うめお | 09:19 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
        森鴎外文学碑 いすみ市日在
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          森鴎外文学碑
           

          森鴎外は日在(東海村という名前だったそうです)が気に入り、別荘「鴎(かもめ)荘」を建てました。「阿部一族」や「高瀬舟」などの代表作はここ日在で執筆したそうです。文学碑は日在で執筆した短編小説「妄想」の冒頭部分を、碑面に刻んでいます。日在の松林、主人と老僕が、碑面には描写されています。
           
          この短編小説。一応読んでみました。「役者が舞台に出てある役をつとめている自分」とは別に、「その背後にあるもうひとりの自分」がいて、静かに自分というものを考えてみたい――ということが、このあとに続きます。鴎外は軍人(軍医)として大勢しますが、一方で、小説家としても活躍します。「役者の自分」と「背後の自分」とは、そうした軍人と小説家との二重生活から来ているのかもしれません。
           
          碑文の内容は次の通りです。


          ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
           森鴎外文学碑 「妄想」より

            目前にはひろびろと海が横たわっている。
            その海から打ち上げられた砂が、小山のように盛り上がって自然の堤
          防を形づくっ
          ている。
          (中略)
            その砂山の上に、ひょろひょろした赤松が簇(むら)がって生えてい
          る。余り年を
          経た松ではない。
           
          海を眺めている白髪の主人は、この松の幾本かを切って、松林の中へ
          嵌(は)め込
          んだように立てた小家(こいえ)の一間(ひとま)に据
          (す)わっている。

            主人が元(も)と世に立ち交じっている頃に、別荘の真似事のような
          心持ちで立て
          たこの小家は、ただ二間と台所とからとから成り立ってい
          る。今据わっているのは、
          東の方一面に海を見晴らした、六畳の居間で
          ある。

          (中略)
            河は上総の夷隅(いすみ)川である。海は太平洋である。
            秋が近くなって薄靄(もや)の掛かっている松林の中の、清い砂を踏
          んで、主人は
          そこらを一廻(めぐ)りして来て、八十八(やそはち)と
          いう老僕の拵(こしら)え
          た朝餉をしまって、いま自分の居間に据わっ
          たところである。


          ――――――――――――――――――――――――――――――――

          「据(す)わる」というのは、落ち着くという意味。
          目が据わるとか言いますよね。
          「座る」ということとは少しニュアンスが違いますね。

                                                                                             うめお

           

           
          posted by: うめお | うめお | 16:07 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
          松本清張ら 奈良の旅
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            松本清張 奈良の旅

            松本清張・樋口清之 奈良の旅 

             奈良県の「山の辺の道」はぜひ行ってみたい場所です。「この道に沿って、古代日本を代表する部族の本拠があったことを忘れてはならない」として三輪の大神(おおみわ)神社=大神氏穴師の兵主(ひょうず)神社=秦(はた)氏大和神社=大和(やまと)氏、石上(いそのかみ)神社=物部氏を挙げているのが松本清張の「奈良の旅」です。

             松本清張といえば古代史でも有名ですからね。面白いだけではなく、ためになります。読んだ感想です。

            うめお

            posted by: うめお | うめお | 07:31 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
            歳月 司馬遼太郎
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               司馬遼太郎 歳月

                 このたびは司馬遼太郎「歳月」を読みました。
              幕末・明治維新期の佐賀藩出身の江藤新平を主人公にした小説です。


               この小説を読もうと思ったきっかけは、肥前・佐賀藩がなぜ薩長土肥というベスト4に入れたのかを知りたかったからです。江藤新平のことは二の次でした。



                 
              (上写真 江藤新平)


               佐賀藩が戊辰戦争に参加するのは慶応四年四月十五日の上野戦争からです。


               遅いスタートの佐賀藩がベスト4入りを果たせたのは、藩主鍋島
              閑叟
              (かんそう)が丹精こめて作り上げた軍事力がものを言ったからですね。  


               なにせ当時薩摩・長州の通常の兵器が単発ミニエー銃
              17両)だったのに対し、佐賀では七連発スペンサー銃(37)だったのですから。

               
                「
              佐賀藩の奇蹟」
              と呼ばれるほど西洋文物を取り入れることに熱心な閑叟でしたが、藩方針は事なかれ主義の佐幕傾向でした。


               一方、大変な苦労をしてきた薩長または土州の間に割り込んで、革命の果実だけを横取りしようと企んだのが江藤新平でした。
              (司馬遼太郎の説)

              posted by: うめお | うめお | 21:14 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
              和室の大黒天
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                和室の大黒天 6月1日鴨居の上に 

                  茨城の常陸太田市の親戚が書いてくれた大国様(正式には大黒天)の絵。今まで和室のすみっこにあったのですが、泊ったさんから「ちゃんと目立つ所に安置しないとご利益がない」と指摘され、鴨居の上に安置することになりました。

                 インターネットで調べてみたら、大黒様は、もとは古代インドでの戦いの神であったとされ、時と破壊を司るシヴァ神の化身とも言われているそうです。 神棚と同様に南向きあるいは東向きにして、頭より高い位置で祀(まつ)る、とのこと。

                 大黒様を神社神道と考えるか、それとも仏教系統と考えるかは信奉する人の判断によるといいます。

                 何はともあれ「ご利益がある」と信じなければいけない、とさんは力説しています。貴重なアドバイス、ありがとうございました。        
                                                        うめお
                posted by: うめお | うめお | 13:32 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                夏の花 あおい
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                   夏の花 あおい

                  夏の花 あおい

                    上の絵は、葵(あおい)を題材にした絵手紙です素敵な絵ですね。そして素直な絵ですね。私達のペンションに泊まって頂いた方が、その御礼として送って頂いたものです。東京・豊島区の方々に泊まって頂いたなかのおひとりです。

                    さて、葵の絵はかつてのテレビ番組・水戸黄門のタイトルに使われましたね。「人生楽ありゃ苦もあるさ」というテーマソングが流れる時、画面いっぱいに徳川家の家紋が映し出されますが、その家紋が葵なんですね。あのテーマソング、歴代の助さん・格さんが歌っているんですが、私が印象的だったのは、あおい輝彦が助さんだった時に歌ったものです。

                    やはり葵(あおい)がでたら、あおい輝彦でしょう!             

                                                           うめお

                  posted by: うめお | うめお | 18:39 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                  布施塚
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                     布施塚

                    布施塚

                      小高い丘の上に布施塚と呼ばれる古い3層の石塔があります。上総介広常の没後、その供養のために建てられたものと伝えられてきましたが、県の文化財調査によって、供養塔ではなく、舎利(しゃり)塔であろうと推定されました。塔身部の文様などによって、鎌倉時代の作と推定されています。

                       布施の地名は、鎌倉幕府創設に大きな役割を果たした広常の死後、頼朝の命で追善供養が行なわれたとき、鎌倉から布施料とされたためと言われています。ここから西の台地一体を殿台(とのだい)といい、広常の館跡といわれている中世の城郭があります。近くには、根古屋(ねごや)・堀内・鍛冶(かじ)屋敷などという地名も残っています。

                       供養塔との関連は定かではありませんが、広常の地勢をうかがうことができます。

                                                            うめお



                    posted by: うめお | うめお | 21:24 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                    赤山地下壕跡
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                      赤山地下壕跡 写真1

                         赤山地下壕跡

                        房総半島の先端にある人工約五万の街、館山市。旧日本軍の東京防衛の要塞都市であり、戦略拠点にもなったこの街には、数々の戦争遺跡が残っています。

                      赤山地下壕跡 写真2

                        同市内の赤山という丘の中腹に、「本土決戦」を想定した抵抗拠点と見られる地下壕(ごう)があります。いわゆる「赤山地下壕」です。壕内部の部屋の入口上部に、コンクリート製の額があります。刻まれているのは「戦闘指揮所」の文字。さらに奥には「作戦室」の文字が刻まれた額のある部屋もあります。

                      赤山地下壕跡 写真3

                       昭和19年7月に発令された「本土沿岸築城実施要綱」に基づいて、敵上陸が予想される地点に、抵抗する陣地や砲台などの建設をしたものの一環と考えられるといいます。

                      赤山地下壕跡 写真4

                       「作戦室」の隣の部屋の天井には、約3メートル四方にわたって描かれた力強い竜のレリーフもあります。竜がどんな意図で描かれたは謎です。ただ、戦争末期に製造された水中特攻兵器には「海竜」「蛟竜(こうりゅう)」など、竜の文字を付けた特攻艇が多かったので、戦意高揚の意味もあったかもしれない、といいます。



                       最深部の部屋には、開封されていないコンクリートの袋が8個、無造作に積まれたまま固まっていた、といいます。おそらく、終戦間際まで壕を掘り進め、そこで敗戦を知らされ、作業を放棄したのではないだろうか? ということです。

                                                             うめお
                      posted by: うめお | うめお | 14:59 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |